相手をあたたかく、思いやること
相手のことを、その人の”いま”を受けとめる。
私の”いま”を押し付けることなく、
上から目線になることなく、おなじ所に立つこと。
お話しする時も同様で、言葉も上から言うのではなくて、同じところから。
喜ぶこと、嬉しい事があったら、「嬉しいことがあって良かったね」って
悲しいことがあったら、「そういうことがあったんだね、悲しかったんだね」って
相手の感情を、わたしが気づくこと。わたしが気づくことによって、本人に気づいてもらう。
そして本当はどうありたかったのか。
相手が迷いの中にいれば、答えを求めてくるかも知れない。
こうしたらこうなるよという、私の経験の上での答えは、私の答えでしかない。
答えは自分の中にあるんだろうけど、一人では本当の気持ちに気づかずに、答えまでの道がものすごく遠くなる。改めて、人は一人では生きていけないんだなと腑に落ちる。
今日先生が仰っていた。
法然上人は、門徒さんを大事に思っていらした方で、寒い時にお参りに来られた方には温かいお酒を振る舞い、夏の暑い時にお参りに来られた方には冷たいお酒を振る舞っていたんです。と。
それだけ聞くと、
門徒さんを大事にする=お酒を振る舞う
と捉えて、じゃあお酒を振る舞えばいいのねってなるけれど、本当のところはそうではない。
分かっているけれど、言葉にすると具体的にどんなことなのだろう?
寒いなか、お寺にお参りしにいく。きっと体も冷えているだろう。
そこで住職さんがお酒を振る舞ってくれた。
私を迎え入れてくださってるような気持ちになるかも知れない。
そしてお寺に行くという事は、もしかしたら相談事があってのことかも知れない。
お酒を頂くことによって、心もほぐれ、話しやすくなるのかも知れない。
相手の健康を、幸せを願いながら接することも、大事にすることに当てはまると思う。